蒼姫(第一部完結)

純血の人狼ヴェルダーウェインが彼女の塔を訪れた時、その戦いは始まった。 読み手を置き去りにする神速のファンタジーバトルアクション、今ここに開幕!

2014年01月

「どうした。飲み過ぎたのかい?」
 人狼は、月夜を散歩する、蒼の魔導師を見付けた。
「ミルクで、ですか? まさか」
 マイラは、微笑む。
 人混みを嫌って、外に出たのか。
「そうかい。しかし、やられたね。どうせジェネラル・ロッドの手配だろう…」
 ヴェルダーウェインは月を見上げる。
 満月には、狼の血が騒ぐ。
 その血の疼きも、ファースのおかげで静まっていたが。
「すっかり俺まで、英雄の仲間にされちまった」
「狼の牙も抜かれた、と?」
 マイラは、意地悪に問い掛ける。
「冗談じゃない。それこそ奴等の思う壺だ。まあ、やり難くなったには違いないが」
 何が、やり難いのか。
 それは。
「名が売れると、悪い事も出来ませんからね」
「悪い事、は無いだろう」
 人狼は抗議する。
「奪われた物を取り返して、何が悪いんだ?」
 ヴァンサムラーナの事であった。
 ロッドの狙いは簡単に見えた。
 おだてて絡め取ろう、などという訳では無い。
 ただ、人狼を有名人にして、その動きを制限する。
 マイラやハドが、そうであるように。
 地味だが、それなりに有効な手であった。
 しかし、実は。
 恐るべき真の目的は、更に別のところにあったのだが。
 それに二人が気付くのは、もう少し先の話だ。
 ともあれ。
 企んでいるのが老人ならば。
「やはり、クルーズ・マスターでしたか」
 マイラも、その可能性を考えなかった訳では無い。
 ヴェルダーウェインを追い詰める事が出来る連中など、そう多くはないのだから。
 しかし、ひとつ分からない。
「彼等がリスタの女王を求めた理由とは、何だったのでしょうね」
 そこが思い当たらないのだ。
「連中の狙いなんぞ、どうでもいいのさ。それより…」
 狼は、珍しく真顔で言う。
「聞かせてくれないか? マイラ・オルフェイン」
 ヴァンサムラーナを取り戻す件について、協力するか、しないのか。
 …では、無かった。
「何故、俺を手伝う気になった?」
 マイラは既に、船の上で協力を申し出ていたのだ。
「あんた確か、国王とも面識がある筈だろう」
「幼少の頃、父の絡みで数回お会いしただけですが。良くご存知ですね」
 マイラは、笑みを保っている。
「理由はひとつです。ヴェルダーウェイン」
 真っ直ぐな瞳が、人狼を射抜く。
「貴方は、私が殺していた筈の少女を、救ったのです」
 スクランカの事であった。
 そのお礼、といったところか。
「偶然さ」
 さらりと、人狼は流した。
「何も、狙ってやった訳じゃない」
「だとしても」
 マイラは譲らない。
「その借りを返さなくては、私の気が済みません」
 狼は、大げさに肩を落とす。
「なんだ、そんな理由かい。てっきり…」
 大きな笑みがある。
「俺に惚れたから、協力してくれるのかと思ったんだがなあ」
 まさか、そういう解釈があったとは。
 マイラは、不意打ちを食らった。
 しかし、負けていない。
「貴方やハドのような遊び人に、ですか?」
 一括りに、切り捨てる。
「残念ですが、好みではありませんね」
 色男が、振られた。
「そいつは本当に残念だよ。だが協力してくれるなら、口説く時間はあるさ」
 引く気はないようだ。
 こちらも。
「だが、もう一度だけ聞いておく。本当に、いいんだな?」
 それに協力するという事は、クルーズマスターを。
 或いは、リース連合王国そのものをも、敵に回すかもしれないのだ。
 リスタ最後の女王を捕らえて監禁する、などという事が、ジェネラル・ロッドの独断だとは考え難い。
 即ち、そこには国王ライアス・リースからの指示があったと推定される。
 今回の手際を見ても、そう考えるべきだ。
 割に合うとは、とても思えない。
 しかし。
 その判断をするのは、彼女なのだ。
「ええ。ただし条件があります」
 マイラは、微笑んだ。
「あくまで彼女を奪還するまでです。その後の面倒は見ません」
 借りを返す為にヴァンサムラーナ奪還を助けるが、それ以外は一切しない。
 どうも、そういう事らしい。
 それで釣り合う、と魔導師は考えているようであった。
「将来、彼女の記憶が戻るような事があれば、ひょっとすると敵対するかもしれません」
 さらっと言う話ではない、が。
「それは、俺とも、かい?」
 念の為、狼は確認する。
「元々、敵同士じゃありませんか」
 マイラは言ってのけた。
「参ったね。今の俺達は仲間だろうに」
 愛嬌のある笑みで、ヴェルダーウェインは返す。
「期間限定の、ですね」
 取り付く島も無い。
「だが俺の読みじゃ、あんた敢えて今、俺との距離を取り直しただろう?」
 マイラは、呆れる。
「まさか。ですがそう思うなら、相手に言うべきではないでしょう?」
「お前の事など、全てお見通しだ」
 ぺろん、と大きな舌を出す。
「…と、そうやって思わせるのもテクニックなのさ」
 どうやら。
 一歩も引く気はないらしい。
 この、タフな狼は。
 不死身の人狼、ヴェルダーウェインに。
 マイラは、げっそりした。
「…やはり、気が変わりました。もう手伝いません」
 蒼の魔導師は、人狼に背を向けると、歩き出す。
 狼は、楽しそうに笑っていた。
「怖いのかい? この俺が」
「違います」
 珍しく、声に苛立ちを隠せない。
「塔に篭って浮世離れしたつもりでも、こうやって外の世界に触れると、駄目だよなあ」
 勝ち誇ったように、狼は言い放つ。
「人間らしさを取り戻すだろう? マイラ・オルフェイン」
 魔導師に冷ややかに睨まれても、人狼は怯まず続けた。
「あんたは本来、そんなに乾いた人間じゃないのさ」
 分かったような事を言う。
「…それも、テクニックですか?」
 にやり、と狼の口が笑った。
「さて、ね」
 食えない男であった。
 魔導師は、大きな溜息をひとつ。
 ヴェルダーウェインの目的を、完全に理解したからだ。
 この男は、マイラ・オルフェインの領域に。
 本気で、入り込もうとしているのだ。
 そういう、意思表示であった。
「どうやら本気でしたか、人狼」
 冗談だ、という事にしておきたかったが。
「ああ。言っただろう? 俺は、あんたにも惚れてると」
 それは、叶わないらしい。
 なれば。
 逃げる訳には、いかないのだろう。
 アステノーラ流の名に賭けて。
「ふふ。受けて立ちますよ、その勝負」
 マイラは、戦うことにした。
 そういう運命なのだろう、彼とは。

 他の誰にも、きっと分からない。
 二人のやり取りが、実は。
 意外に、ロマンチックなものであったと。



「ファースが居ないんだけど…」
 レイクリルは、朝食に姿を見せない相棒を気に掛けている。
「そうか。もう行ったか。思ったより早い決断だよ」
 昨晩あれだけ飲んでも平然としている巨漢が言った。
「どういう事です? 船長」
 レイクリルが詰め寄る。
「一人になりたい時があるんだよ、男ってのはな。だが、しかし…」
 対面に座る長身の人狼に向けて、言葉を投げる。
「その答えが妙に早いな。誰かに背中でも押されたのかね」
「悪かったかい? 善意のつもりだったが」
 干し肉を頬張りながら、人狼は何故か、マイラに振る。
「私に聞かれても…。ただ、追うなら早い方が良いですよ」
 その視線はレイクリルではなく、スクランカへ向けられた。
「そうだね、お姉さん。私の鼻なら、きっと見つけられるよ」
 やっと、レイクリルに言葉が回って来た。
「何となく分かったわ。あいつ、あたしを置いて一人で行ったのね」
 彼女は気付いた。
 気付きたくなかったが、荷物も無くなっているのだから、それが答えだ。
「で、なんで貴女がファースを追うの?」
 今度はスクランカに詰め寄る。
「決まってるでしょ。ね?」
 父親へ言い放つ。
「好きになっちまったもんはしょうがない。そうだろう?」
 にやりと笑うと、狼はマイラへ言う。
「私に言われても…。ただ、貴方達のように異性と見れば即発生する感情では無いようですね」
 ハドへ。
「おい。俺は一途だよ。遊びと本気は分けているからな。しかし、もてるじゃないかよ、ファース」
 何の遊びだろう、この伝言ゲームは。
「もういいです! あたしは絶対にあいつを捕まえるんだから!!」
 ほっぺたを膨らませて、レイクリルは宿を飛び出した。
 ファースを、封印でもしそうな勢いだ。
「だから、私の鼻が無いと無理だよ」
 スクランカがそれを追う。
「お前なら直ぐに見つけるかも知れんが…」
 ヴェルダーは、すかさず声を掛けた。
「まあ、半年くらいは追い付かずにいてやれ。本気であいつを想うなら、な」
「…うん。分かったよ、パパ」
 笑顔で頷くと、スクランカは消えた。
 見事な速度であった。
 ファースに追い付きはしないが、追い付ける距離には留めておきたいようだ。
 狼は狩りの際、長時間の追跡を行う。
 獲物とされる若い剣士に、人狼は同情した。
「しかし、大丈夫かね…。道中、年頃の娘二人だけ、というのは」
 ハドが、思い付いたように言う。
「レイクリルさんの封印術は、今やハド・ギームすら止められますからね。前衛さえ居れば、ですが」
「うちの娘も、出会った頃の坊やよりは強いかもな」
 つまり。
「俺では手篭めに出来ん程のコンビ、かよ」
 ハドより手強い女好きなど。
 …目の前の人狼くらいしか、居そうに無い。
 心配は不要であった。
 暫しの沈黙の後、マイラが口を開いた。
「やっぱり、アディさんの煎れた紅茶はおいしいですね」
 男達は、頷いた。
 他にここで語る事は、もう無かった。


 彼等はこれより、それぞれの道を行く。
 ファースは既に旅立った。
 少女達は、彼を追った。
 ハドは、再び気ままな海へ、レチルやビーガンと共に。
 マイラとヴェルダーウェインは、ヴァンサムラーナ奪還へと。
 誰も再会の約束は取り付けなかったが、何時かまた出会う事は分かっていた。
 ただし。
 それは、少し先の物語となりそうだ。

 時は未だ、満ちていない。



「届け物なんだが、ね」
 人狼、ヴェルダーウェインが懐から取り出した物があった。
 自分自身、だとはもう言わなかった。
 二つ折りの羊皮紙だ。
「預かり物、だな。男からの」
 ひどく個性的な字。
 ハドには、確かに見覚えがある。
 以前、それで酷い目に会っているのだ。
『マイラ・オルフェインへ』と書いてあった。
 誰からの手紙だろうか。
 蒼の魔導師は、羊皮紙を開く。
『次に会う時は、”さん”付けするなよ。もちろん俺の相棒にもな。剣士より』
 約束は今、ここにかわされたのだ。
 マイラ・オルフェインは、天井を見上げた。
「ただの、約束でしょう」
 笑顔がある。
 その相手は必ず、約束を守ると知っているから。
 明日はきっと、良い日だろう。
 そう思わずにいられなかった。


 透き通るようでいて、しかして深い、蒼の証が揺れていた。










蒼姫 第一部  完

「ただの人狼じゃない人狼なんぞが、二人も居てたまるか」
 言いながら、ファースは気付いている。
 この獣気は、おかしい、と。
「だって私、パパの娘だもん」
 ゆらり、と。
 素手のまま、構えも取らずにスクランカが間合いを詰める。
 何だ、これは。
 ファースはその違和感に戸惑った。
 剣士と少女が交差した。
「ちょっと速過ぎないか、スクランカ」
 それは、少女の身体に人狼の能力を上乗せした動きでは無かった。
「あれが当たらないんだ? やっぱり凄いね」
 何やら攻撃を仕掛けていたらしい。
「今のが四割だ。その感覚を覚えろ、スクランカ」
 ヴェルダーウェインの言葉に、剣士は抗議した。
「おいちょっと待て。これが四割って冗談だろ?」
「そういう意味じゃないの」
 スクランカは、くすっと笑った。
「じゃ、どういう意味だよ?」
 牙折剣の切っ先を少女に向けて、ファースは問う。
「すぐ、分かるよ…」
 少女の小さな体が、動き出す。
 その気配が、消えた。
「ちい!」
 少女の爪が伸びていた。
 それを、剣士は牙折剣で払う。
 技が使えなかった。
 相手の剣を絡め取る、あの技が。
「気配を殺した攻撃かよ。船長と剣を合わせてなかったらやばかったぜ」
 そう、ハドの剣と同じだ。
 ファースにとって初めてでは無い。
 それ故、辛うじて反応出来たのであった。
「だが、何故お前にそれが出来るんだ?」
 あれは、ハド・ギームという腕利きの剣士が、更に強くなる為に習得した技術だ。
 数日前に人狼になったばかりの少女が、出来る芸当では無いが。
「さっきから質問ばかりだよ? ファース」
 答えは自分で見つけろという事か。
 実のところ、少女には反魂の術で蘇った影響が幾つか残っている。
 それは、戦闘において有利に働く性質の物だ。
 ファースが知る由も無いが。
「分かった。なら次はこっちの番だぜ」
 ファースの足が、地を蹴った。
 それは、大きな動きでは無いのに、一瞬で三歩の距離を飛んだ。
 牙折剣が走る。
 それを避ける筈の軌道に、斬魔剣が繰り出されていた。
 しかし。
 スクランカの体が、そこに無い。
 剣士の後方。
 だが、ファースも剣を振り抜かずに体の向きを変えていた。
 恐るべき反応ではあったが、何より。
「それが、人の動きか?」
 剣士は呆れていた。
「今のは六割越えた。気前良く出し過ぎだよ、馬鹿娘」
 何故だか人狼が怒っている。
「ごめん、パパ。でも、そうしないと負けてたよ…」
 どうも。
 何割とか言うのは、本気かそうでないか、という話では無いようだ。
「もういい。言いつけを守れないならここまでだ。代わろうか」
 ヴェルダーウェインが、告げる。
 どうやらスクランカの負けという事になったようだが、何故?
「説明してやるよ。ファース」
 きょとんとしている若者に、人狼は告げる。
「とある理由で、こいつは肉体の潜在能力を全開に出来るのさ」
 それもまた、彼女特有の能力だ。
 かつて、死者であったが故の。
「潜在能力だと?」
 剣士は、剣を鞘に収めながら聞いている。
「人間ってのは、その体が持つ能力の三割くらいしか使えない、とされている。それ以上出すと危険だ、と脳が制限しているからだ」
 そんな話は聞いたことがある。
「まさか、それを十割引き出せるってのか?」
「そういう事だ。だが、訓練もせずに六割も引き出した日にゃ、体がついて来ない。後で反動が来る。だからやめさせたのさ」
「うう。つい…。だってファース強いんだもん…」
 申し訳なさそうに落ち込む少女に、剣士は驚愕していた。
「じゃあ、訓練したらあの動きが常に出来るってのか?」
 暫し考え、ヴェルダーウェインは答える。
「どうかな。それでも体が悲鳴を上げるか。一時的ならともかく、な」
 一時的だとしても、それを自在に調整出来るのなら。
 勝負を決めるのは、ここぞという一瞬なのだ。
 そこで人狼ベースの六割、つまり二倍などという運動能力が発揮出来るなら。
 しかもその上で、気配を消すなど、と。
 強過ぎる。
 体の底が震えるくらいに。
「…そうか。んじゃ体を鍛えろよ、スクランカ」
 ファースは思ってしまった。
 鍛え直した少女と再戦したい、と。
 無論、その間に自分も相当腕を磨いてなければ勝てないが。
 いや、磨くのだ、この腕を。
 若い剣士ならば誰もが一度はそう思い、何時か諦めるか、どこかで妥協する。
 そんな感情に身を任せる。
 そして、ヴェルダーウェインに向き直した。
「さて。娘の代わりに、ここからは父親が相手してくれるんだろ?」
 試したい。
 ヴェルダーウェインに対して、今の自分を。
「まあ約束だからなあ。仕方ない」
 だるそうに、人狼は肩を鳴らす。
「一ヶ月前のようにはいかないぜ?」
「知ってるよ。今見せて貰ったからな」
 獣気が拡大する。
 それに挑むように、剣士の闘気が強まっていた。
「じゃあ、やろうかい」
 剣士は抜刀しない。
 何か狙っているな、とヴェルダーウェインは思ったが、構わず始めたのであった。



 自然体の人狼。
 隙だらけのようで、しかして隙が無い。
 不思議な男であった。
 しかし、ファースも狙っている。初撃で決めよう、と。
 何をするつもりか。
「驚いたね。短期間でここまで成長できるんだな、人ってえのは」
 ヴェルダーウェインは感心している。
 ファースの肝が据わっているからだ。
 それは、かつての彼の姿では無い。
「だが、それでも足りんさ」
 揺さぶりのつもりか。
 ファースが剣の柄に手を掛ける。
 斬魔剣と。
 牙折剣の両方の柄に、手を交差して。
「何だよ、そのふざけた構えは」
 人狼は鼻で笑う。
 両手のどちらが来るか分からないようにして、機先を制する気か。
 しかし、そんなものは下半身の動きを見ていれば読める。
「ふざけちゃいない」
 言いながらファースは右足を引いた。
 決まりだ。
 左手に握られた、右の鞘の方。
 斬魔剣エルファリス、か。
 ならば、人狼も一度、あれを手にしている。
 間合いも分かってしまっているのだ。
「がっかりだよ、坊や」
 人狼は、心底そう思った。
 しかし。
「俺もさ、ヴェルダーウェイン」
 ファースが始動していた。
 鞘に収まった剣を、抜き放ち様に敵を切り落とす。
 居合いと呼ばれる剣技だ。
 狼は、自分の眼に絶対の自信がある。
 それを振らせて、見切ると同時に攻撃を繰り出すつもりだ。
 そして、二人は接近した。
 エルファリスの間合い。抜かれるのは、やはりそちら。
 その刀身が閃くのを人狼は眼で追っている。
 柄がせり出す。しかし。
 刀身が、見えない。避ける筈のそれが、見えない。
 柄しか見えないのだ。
 おかしい。
 人狼に迷いが生じる。剣の柄が迫っている。
 それを追っていた狼は反応する。
 ファースは。
 刀身を返さずに、剣を抜いた力のまま、放った。
 エルファリスは柄をこちらに向けたまま、飛んで来た。
 避ける必要が無いものを、避けようと意識していたあまり、狼が避ける。
 体勢が崩れたところに、本命の牙折剣が抜刀されていた。
「小賢しい…!」
 体勢を崩してなお、牙折剣の一撃を爪で受ける。
 そこから力で人狼はファースを押し返す。
 筈だった。
 力を込めた爪が、泳ぐ。
 剣士は剣を引いた。
 今度こそ、人狼の体が泳いだ。牙折剣が再び加速する。
「な…」
 いや出来なかった。
 ファースの右手首が、人狼に捕まっていたのだ。
 その動きが、まるで分からなかった。
 見えなかった、のか。
 初めて対峙した時、エルファリスの柄を握られた。
 その事を剣士は思い出していた。
「頑張ったが、ここまでだな」
 手首を掴んだまま、捻られた。
「ててて、くそっ。何で今のが捕まるんだよ!」
 剣士は取り押さえられていた。
「目標は遠くなければいかんだろう? ファース」
 遠い。
 ファースは、その距離を感じた。
 今の動きなら、ハドでもロイエスでも押した筈だ。
 勝ち切るかどうかは分からないが、流れは掴んでいただろう。
 その一片の流れすら与えないなど、と。
 ヴェルダーウェインの立ち位置は、どうやら彼等の先にある。
「どうした? 惚けてるなら置いて行くぜ。俺はまだ、立ち止まる気が無いんでね」
 化け物。
 出会った時に感じた直感は、正しかった。
 ファースは、その強さに感動していたのだ。
 傍で見ていたスクランカも、同様であった。
「パパ、強過ぎるよ」
「まったくだ。ここまで差があったのか」
 ファースの言葉に人狼は頷いた。
「その差が分かる程度には、成長したって事だ。俺を追って来い、坊や」
 剣士も頷く。
 しかし、狼の次の言葉は強烈であった。
「こんな俺でも、マイラ・オルフェインには完敗したんだぜ?」
 そうであった。
 この人狼を半身にしたのは、他でも無い蒼の魔導師だ。
「世界は広いな。そう思うだろう、ファース」
 人狼が手を離す。
 ファースは立ち上がった。
「魔導師の強さはよく分からない。けど、あんたより強いのか、あの人は」
「ああ。今は、な」
 ヴェルダーウェインが立ち止まれない理由、らしい。
「けど、当の本人は最強であろうとは思ってないぜ?」
 ファースは、マイラに感じている事を口にした。
 周りが彼女をそう見るだけだ、と。
「それが余計に悔しいのさ。男としてはな」
 どういう意味で言っているのだろう。
「男が女より弱いと、恥ずかしいのか?」
 分からなくも無い。
 だが、相手は魔導師だ。
 強さの質が違う。
 そこまで悔しい事なのか、とファースは考える。
 しかし狼は、平然と言った。
「当然だろう? でないと守ってやれない」
「…守る気だったのかよ…」
 マイラ・オルフェインにその必要があるとも考え難いが…。
「良い女は俺が守るんだよ」
 言い切った。
 妙に爽やかに。
 それが特定の誰かに向けられた言葉なら、惚れ惚れする台詞だが。
 この狼は、相手構わず言いかねない。
「女ってのは、か弱い生き物じゃないだろ」
 マイラや成長した相棒を見てきて、ファースが出した結論だ。
「そうだ。だが相対的に俺が強くなれば、か弱いだろう?」
 なんという男か。
 ヴェルダーウェインは、本気でそれを口走っている。
 度量が大きいのか小さいのか、それすらさっぱり分からない。
 意味不明に計り知れない男であった。
 そこのところは目標にしたくない、とファースは思った。
 言わなかったが。
「だが、どうだ? 目指す場所は見えただろう」
 人懐っこい笑顔で言われて、ファースは前を見た。
「まだ見えないな。遥かに遠過ぎて」
 それは、鎧の魔物を討つより、険しい道なのかもしれない。
 しかし悪い気分では無かった。
 この男に追い付きたいと思うのは、命を掛けるに足る決意、とは違う。
 憧れ、なのだ。
「ぐずぐずしてると私が追い抜くよ? ファース」
 スクランカなら、本当にやりかねない。
「そいつは困ったな。修行の旅でもするか」
 ヴェルダーウェインと行動を共にしても、彼は超えられない。
 様々な強い連中と戦う事が、自分の幅を広げる事だと剣士は直感した。
「ありがとな。ヴェルダーウェイン。また何時かやろうぜ」
「礼を言われる事じゃないさ。まあ、好きにしな」
 ファースは宿へ戻って行く。
 その眼に、迷いはもう無かった。
 いや。
 ぴたり、と足が止まる。
「最後に、もうひとつだけ聞きたいんだ」
 振り向かずに剣士は言った。
「言ってみろ」
 狼は、ファースの背中を何となしに眺めている。
 目指す物は今、示した。
 恐らく、別の話なのだろう。


「魔人ヒューデスは、家族も仲間もリース連合王国に殺されたって言った」
 魔人が戦う理由をファースは語った。
 それは、復讐であった。
「それで? 後悔でもしてるのかい?」
「いや…」
 ファースは小さく首を振る。
「後悔じゃない。ただ、俺はそんな男を殺して、ここに居る」
 人狼は黙って聞く。
「俺が戦う理由は、友を殺されたからだった。約束と言えば聞こえは良いが、私怨を晴らす為だと取られても文句は言えない」
 自分と魔人で、何が違うのか。
 それを問う。
「なあヴェルダーウェイン。正義ってのは何処にある?」
「正義なんてもんに興味は無いんでね」
 狼は言い捨てる。
「だが、お前がやらなきゃ俺がやっていた。怪我が治ってからだろうがね。奴はお前と違うぜ」
「何が違う?」
 若者が一番知りたい事を、人狼は一言で片付けた。
「憎んだ相手が、だ」
 どういう事か。
「自分が悲しい想いをしたから、地獄を見たからといって、世を憎むのは弱い奴のする事だ。いいか? 無差別な殺戮を復讐とは言わんのさ」
 無差別。
 それが、ファースに無く、魔人に在ったもの。
 特定の誰かでなく、世の中の全てを憎悪したという事実であった。
「あいつは私を操って、マイラお姉さんにけしかけたんだよ」
 スクランカが、打ち明ける。
 ヴェルダーウェインは一瞬、止めようとしたが、言わせた。
「普通の娘が相手なら、お姉さんも躊躇う、って計算してね。その為だけに私は…」
「…そこまでにしておけよ、スクランカ」
 それ以上は言わせなかった。
「そういう男さ。正義の在り処など知らん。が、ヒューデスは紛れも無い悪党だ」
「悪、か」
 ぼそりと呟いて、剣士は再び歩き出した。
「気が済んだかい?」
「ああ。あいつがスクランカに酷い事をしたってのは分かった。それは許せない」
 ファースは歩きながら、右手を上げた。
「けど、悲しいな。世を憎むってのは」
 咄嗟に出た言葉が、それであった。
 憎しみを向けられた者は、憎しみで返すだろう。
 誰かに優しくされたら、優しく出来るように。
 人は皆、鏡のような性質を持っている。
 世を憎むとは、即ち。
「そいつは、世の中の全てから憎まれるって事だろう?」
 それを悪と言うのなら、悲し過ぎる、と。
「…この、お人よしめ」
 ヴェルダーウェインは、小さく笑った。
 言いたい事はまだ幾つかあったが、それを飲み込む。
 何時か、自分の答えを見出すであろう男に、これ以上伝える必要は無かった。

 剣士の背中が小さくなると、スクランカが言った。
「ねえパパ。私、ファースに惚れちゃったよ」
 狼は驚かない。
 ただ、ひとつ忠告をした。
「あいつには女が居るだろう」
 レイクリルの事を言っているのだと少女には分かる。
「あの二人、付き合ってる訳じゃないよ」
 何故、そこまで分かるのだろう。
「人狼は鼻が利く、か。だが、そうなのかい?」
「うん」
 付き合っていないとしても、あの関係に割り込むのは楽ではあるまい。
 しかし、止める理由も特に思い付かなかった。
「ちなみに何時から惚れてた? 今じゃないな」
「流石だねパパ。うん、初めて会った時から、かな」
 単に惚れっぽいのか、それとも。
 ファースに、特別な何かを感じ取ったのか。
「…人狼は鼻が利く、か」
 もう一度繰り返すと、ヴェルダーウェインは笑った。
「まあ、がんばれよ」
 父親としては寛大らしい。
「うん!」
 スクランカは上機嫌で宿へと戻って行った。
 ファースに追い付くつもりであろう。
「青臭い奴だが、確かに、坊やって訳でもないな」
 次に剣士と合う時は、若造とでも呼んでやろう、と。
 自分が初めて会った時に、妙に気になった相手の事を考えた。
 特に意味も無く、人狼は立ち止まっている。
 もう少し、夜の散歩を一人で楽しむ気になっていたのだ。

 レジエット・マリス号が、デューン島へと凱旋する。
 何故か。
 この船の面々がラザート教を、そして。
 蘇った魔人ヒューデスを滅ぼした事は、港中に知れ渡っていた。
 大歓声が、船員達を出迎える。
「どういう事ですか、ね」
 腑に落ちない、蒼の魔導師。
 この船より早く帰って来た船は、無い筈であったが。
 ハドが、言う。
「ロッドの爺さんだろうよ」
 確かに、魔導師ならば伝える手はある。
 遠話や超長距離瞬動術など。
 だが。
 クルーズマスターの手柄という訳でもない話を、最速のタイミングで公開する理由が分からない。
 そもそも、誰が公開したのか。
「まあ、気にする程の事でもあるまいよ」
 その答えは。
「お帰り、マイラ」
 アディの宿の管理人がもたらした。
「国王が言っていたわ。大した物ね、貴女達は」
 ライアス・リースが自ら公表した、と言うのか。
 しかも、大陸から連絡船で三日掛かる、このデューン島にまで聞こえているなどと。
 ほぼ全快したヴェルダーウェインが、自慢の鼻をひくつかせた。
「匂うな。何を企んでる?」
 この情報伝達には、段取りが出来ていた。そう考えなければ、不可能だ。
「…分かりました」
 マイラは、気付いたようだ。
「ですが、今は楽しみましょうか。ハドの言った通り、些細な事ですから」
 マイラがそう言うなら、そうなのだろうと、傍で聞いていたレイクリルは思った。
「そういう事よ。楽しまなくちゃね、ファース」
「言われなくても楽しむぜ、俺は」
 ファースは、基本的にそういう性格である。
「ハド様ぁ。もしかしてあたし達、英雄になっちゃってますかぁ?」
 レチルも、はしゃいでいる。
「馬鹿言え。元から俺達は英雄だろうがよ」
 平然と言い放つ、巨漢。
 スクランカもまた、違和感を持った一人だ。
「…でも国王って、クルーズマスターの黒幕だよね?」
 ぼそっと、狼に言った。
「黒幕ってお前…。役人に聞かれたら面倒だろう。止めてくれ」
 ヴェルダーウェインは頭を抱える。
「だって…。パパ、大丈夫なの? あいつ等、パパを殺そうと…」
 その小さな口を、大きな手が塞ぐ。
「ああ、大丈夫さ。この騒ぎが連中の仕業だと言うなら、な」
 人狼も気付いた。
 彼等の目的に。
「大きなおじさんの言うように、今を楽しむべきだ、スクランカ」
 少女は頷く。
 そして、祭りは始まった。


 アディの宿の一階の酒場は、深夜まで人が溢れ返っていた。
 ハドの語る英雄譚に、観客が沸き上がる。
 ファースは居心地が悪そうだった。
 どうも、苦手だ。こういった空気は。
「あんたがヒューデスを斬ったって? 若いのに凄いな、兄ちゃん!」
 お祭りは大好きだが、自分がもてはやされるのは、駄目らしい。
 くすぐったくて堪らないのだ。
「俺じゃない。ロイエスだ」
 逃げる為か、咄嗟に言ってしまった。
 が、まるきりの嘘では無い。
 あの時のファースは、確かに友と一緒だったのだから。
「そのロイエスってのは、どこに居るんだい?」
「あ、相打ちだったんだよ」 
 しかし、流石に無理があるか。ファースには、これ以上聞かれても話を続けられない。
 そこへ、助け舟が現れた。
「ああそうだ。牙折剣のロイエス。ファースの親友で鼻持ちならぬ気障な優男だったがね。最期までかっこつけやがって、一人でおいしいところを総取りだ」
 ハドが、見てきたかのように続けたのだ。
 しかも。
「…意外に合ってる」
 ファースは驚く。
 あいつの第一印象は、本当にそんな感じだった、と。
 しかし何故、それが分かるのだろう、この巨漢は。
 その理由は、唯の勘だ。
 ファースが見せた体捌きや太刀筋から、イメージしただけだ。
 ハドは、剣で語り合うという表現を好んで使う。本当にそれが出来るようだ。
「ははは。俺の剣が語ったのかな。後は頼むぜ、船長」
 視線がハドに再び集まったのを確認すると、ファースは軽く右手を挙げた。
 ハドがウインクする。
 そそくさと、剣士は酒場を出た。
 裏手を歩いて行く。
 暫く歩き続けて、そして立ち止まる。
「やっぱり、お前が倒したんだよ。魔人も、そして鎧の魔物もな」
 月に向かって、呟いた。
 約束。
 それが、ファースを動かしたのだから。
 そこへ。
「マイラに聞いたよ。坊やが魔人をぶった切ったってね」
 人狼ヴェルダーウェインだ。
 ファースに興味を持ったようであった。
「もう、その話は止めてくれよ。一人じゃ何も出来なかった」
 ファースは両手を広げてみせる。
「いやいや。確かに一月で顔つきが変わってるよ。坊やと呼んじゃ失礼な程にな」
 突然、獣の気が放たれていた。
「おい? 何のつもりだよ…」
 ファースも、それをやられると構えない訳にはいかない。
 本能が無防備を許さないのだ。
「ハドが言ってたのさ。若者二人は悲願を果たしたと。どうしていいか分からんだろう。夢が叶っちまったらな」
 確かに、剣士はそれを感じていた。
 この後の予定は何も無い。分かり易い目的は、もう無くなってしまった。
 身の振り方が分からないのだ。
 ハド達と暫く海で生活するのも楽しそうであるが、何か違う。
 だが、どう違うのか。
 それも見えない。
「だったらどうだってんだ?」
「この俺が、新たに目指すべき場所を示してやろうと思ってね」
 やっと下半身が再生したばかりの人狼。
 存分に動けるとも思えないが。
 しかしファースは、嫌な汗を感じている。
 それは。
 迷いの森を抜けて、初めて対峙した時と変わらない。
 まだ早いのだろうか。
 この男とやり合うには。
「俺と似ているんだよ。坊やは、な」
 いきなり。
 何を言い出すのか。
「どういう意味だよ」
 剣士は、聞かない訳にいかない。
「大事な者の為、力が欲しい。強くなりたい」
 人狼は、にやりと笑った。
「最初は確かにそれだった。だが、今は違うよな」
 断言する。
「知りたいんだよ。自分がどこまで辿り着けるのかを。どこまで強くなれるのかって事をな」
 思えば。
 人狼というだけで強い筈なのに、彼はそこから魔法を習得した。
 そして禁呪式再生術を得、一時は斬魔剣まで手にしたのだ。
 貪欲だ。
 強さへの強烈な飢え、がある。
 それが、ヴェルダーウェインの本質なのか。
 ファースは、そんな事を考えた。
 しかし、自分も同じとは。
「そうかもしれないし、そうじゃない気もする。だが、確かに…」
 言葉が、溢れた。
「俺は、もっと強くなりたい」
 何の為に強さを求めるのか。
 違う。
 強さそのものが、目的に。
 だが、それは。
 人として、間違っているのかもしれない。
「それだけでいいのさ。憧れるだろう? 最強という言葉に」
「ああ」
 剣士は頷いていた。
 そこに理屈は無い。
「そうか。あんたが俺の新しい目標になってくれるんだな?」
 ファースは抜刀する。
 斬魔剣と牙折剣の二刀流。
「そうだな。だが、こいつに勝てたら、だ」
 狼が指した先に、スクランカが立っていた。
「何の冗談だ。…と言いたいところだが、本気のようだな」
 ヴェルダーウェインにも劣らぬ獣気が、そこに漂っている。
 相手は既に戦闘モードであった。
「えへへへ。言っておくけど私は強いよ? ファース」
 スクランカは人では無い。
 ビーガンから聞いていた。彼女は異様に強かった、と。
 しかし。
 動死体を相手に、強いと言っても底は見えない。
「ただの人狼じゃ、俺に勝てないぜ」
 ファースは言い切る。
「多分その通りだ。だがな、ファース」
 人狼の大きな口が、意味ありげに笑う。
「うちの娘も、どうやら唯の人狼じゃないのさ」
 ヴェルダーウェインにもよく分からない、らしい。

「なあ」
 レジエット・マリスの甲板で、ハドはマイラに言った。
「あの二人を連れて来なかったら、どうなっていた?」
 魔物と魔人を切り捨てたのは、ファースであった。
 魔人の最後の切り札を封印してみせたのは、レイクリルであった。
 その事実が、まるで夢の出来事のようで、ハドは。
 しかし、不思議と納得しているのであった。
「さあ」
 マイラは、海を見ている。
「彼等は目的を果たした。私達は生き延びた。それでは足りませんか?」
「足りてるが、ね。驚いているんだよ」
 ハドもまた、並んで見慣れた海を眺める。
「あれは何だったんだ。ファース…」
 マイラは、少しだけ考える。
「お友達、なのでしょう?」
「…だな」
 亡き友への強い想い。
 それが、ファースの中に実体化し、剣士の潜在能力を引き出した。
 無理に理屈を求めるならば、そんなところか。
 しかし。
「ああいうのを、奇跡と呼ぶのかね?」
 やはりそれは、理屈では語れないのだろう。
 マイラは、即答した。
「ただの、約束でしょう」
 それは、ハドにとって奇跡と言う言葉より、相応しく聞こえた。
「…とんでもない奴だよ。だが、気持ちの良い男だ」
「ええ」
 少年と敢えて言わぬ、巨漢。
 まさに気持ちの良い潮風が、マイラの蒼髪を揺らした。
 その力の証たる、残留魔力によって変色した髪を。
 未だに気絶してる二人を、もう少しだけ放っておこう、とハドは決めた。
 疲れている筈だ。それに。
 二人とも、幸せ過ぎる顔で寝ているものだから、申し訳ないのだ。
 母なる海のゆりかごで眠れば、若者達も持ち前の元気を取り戻すだろう。
 ハドは、ここで大きく息を吐く。
 さて、と。
 そんな事を呟いたようだ。
 確かめたい事が、もうひとつあった。
 そして、遂に切り出す。
「ところで、レチルの件だが…」

 言葉にした以上、後には引けないのだろう。
「あいつが拾われた子だとは知っていたよ。だが、それ以上はな。お前さんなら、分かっているんだろう?」
 ハドは、真っ直ぐにマイラを見る。
「事実を受け入れる覚悟は、用意しているのでしょうね」
 マイラは、静かに告げる。
「知っておきたい」
 本心、なのだろう。
 蒼の魔導師は、敢えて感情を込めずに、説明した。
「古代帝国リスタで、黒の翼族ディルレイは様々な研究を行っていました」
 それは、ハドにも分かっている。
「その中のひとつです。人と精霊を掛け合わせて、精霊魔法に特化した魔導師を作り出す研究、というのは」
「悪ふざけが過ぎる」
 ハドの声には、ぶつけようのない怒りが篭っている。
「実験体、かよ」
 その言葉の持つ温度の冷たさに、マイラは少しだけ身震いをした。
 掛け合わせの生物兵器ならば、先に実用化されたのはリースのブラッディ・ハーフだ。
 ディルレイとファラエの混血は、戦のバランスを大きく変えた。
 人と精霊の混血という狂った発想も、先にその前例があったからではないのか。
 今となっては、推測の域を出ないが。
 しかし、ひとつだけ確かな事がある。
 その凄惨な殺し合いには、守るべき最低限のモラルさえ無くなっていたのだ。
 正史に記すのが許されない程に。
「ですが、術式生体装甲や禁呪の方が戦力になるとされ、研究は中止されました。育成に時間が掛かるというのも、問題だったのでしょう。戦は既に大局を迎える間際でしたから」
 リスタ崩壊の直前。それは、穏やかな末期では無かった筈である。
「実験対象の中には、終戦の混乱に乗じて野に逃げ延びた者も居ました」
「…その子孫がレチル、か」
 マイラは頷く。
 そして、言葉にそっと、感情を乗せた。
「ですが、彼女は普通の人間と同じです。人と子を残すことも出来ます。炎系呪文が得意なだけの、ただの女の子ですよ」
 その無垢な笑みに、大きな笑顔が答える。
「優しいな、マイラ・オルフェイン」
 マイラは、顔を背けて言い放つ。
「ただの、事実です」
 それを優しさだとされるのが、不本意だ、と。
 気恥ずかしい、という訳では無かった。
 理由が、ある。
 ヒューデスもまた、レチルと同様に生き延びた兵器だから、だ。
 しかし同様ではあるが、同等では無い。
 その決定的な違いを理解しているからこそ、ヒューデスには手心を加えなかっただけだ。
 だが、そんなものを、優しさと呼ぶべきではない。
 マイラにとって、やはりそれは、事実に他ならないのだ。
「事実だな。そりゃそうだろうよ」
 ハドは、豪快に笑い飛ばした。
 彼の、レチルに対する想いは変わらない。
 蒼の魔導師は、それを確信したのであった。
 ただ…。
「もう少し、違う方向に変わってあげてもいいんですけど、ね」
「何の話だ?」
 口笛を吹くと、巨漢はくるりと背を向けた。
「さあ。久しぶりに、お前の料理が食いたいんだがね。どうだ?」
 マイラの言わんとする事を理解した上で、堂々とはぐらかす。
「爆炎球でも食らわせてあげましょうか。好物でしょう?」
 恐怖に固まるハド。
 そこへ。
「お姉さん、ファース達が起きたよ。食事にしましょ」
 スクランカが飛んで来る。
「お前なあ。起こしておいて、よく言ったもんだ」
 ヴェルダーウェインが、上半身だけで浮遊している。
「ハド様ぁ、ハド様の料理だけ、あたしの特別製ですよぉ!」
 レチルは今日も元気だ。
 やれやれ、と嬉しそうに巨漢は困ってみせる。
「こら船長、いいから早く酒持って来い!!」
「…誰だよ、ビーガンに酒飲ませた奴は」
 ハドは、巨大な拳を若者の頭に落とす。
 見ていた他の船員達は、大笑いだ。
 そんな中、人狼がマイラに近づき、耳打ちをする。
「食事の後、デッキで待っててくれるかい? 話があるんだ」
 来た、と魔導師は思った。
 ヴァンサムラーナを捜す事に協力するか否か、という件であろう。
 しかし、狼には大きな借りを作ってしまっている。
 反魂により復活した者の、その呪縛のみを解き放つ。
 彼以外の誰に、そんな真似が出来るのか。
 純血の人狼は、マイラですら諦めた少女の命を救ったのだ。
 彼の頼みを、断ることは出来そうになかった。
 ただ。
 マイラは、知らない。
 古代帝国リスタ最後の女王を監禁しているのが、クルーズマスターである、とは。
 それを知ってなお、狼に協力するのであろうか。
 しかし、蒼の魔導師を口説き落とせなければ、狼の夢は叶わない。
 振られる訳にはいかないのだ。
 色男の想いは果たして、意中の女に届くのか。
「ま、何とかしてみるさ」
 誰に言うでなく呟いて、ヴェルダーウェインは食堂へと向かった。
「あの狼、お前さんを狙っているよ」
 ハドはレチルを肩に座らせて、持ち上げながら言う。
「ええ。分かっていますとも」
 マイラは、ぺろんと舌を出した。
 魔導師らしからぬ、随分と可愛らしい仕草であった。

 その、ほぼ同時刻。
「何? もう終わった、じゃとお?」
「はっ。マイラ殿の一行が、魔人ヒューデスを討った、と」
 解毒を済ませて帰って来た、ジェネラル・ロッドは。
 隻眼のバルフォンから報告を受けて、倒れた。
 おいしいところは、一切れも残っていなかったのだ。
「ジェネラル、大丈夫ですか!」
 大丈夫な訳がなかろう、と老人は仰向けに空を仰いだ。


 そして。
「ふぁああああ。良く寝たぜ。なあ相棒」
 ぼさぼさ頭の剣士が、伸びをした。
「本当ね。あんたってば、寝癖がひどいわよ?」
 封印師の娘は、ご機嫌だった。
「…その髪型で、俺の事が言えるのかよ」
「何ですって? 鏡ちょっと貸しなさいよ!」
 寝起きのテンションとは思えない、賑やかな二人がやって来る。
 彼等が初めて塔に訪れた時を、マイラは思い出していた。
 僅かな間に成長した二人だが、やり取りは相変わらずだ。
「よお、ファース」
「おはよう。レイクリルさん」
 ハドとマイラは、何事も無かったかのように、二人を迎えた。




 後の世に、この航海の件は伝わっていくのだろう。
 レジエット・マリス号は、新たな伝説の誕生を見届けたのだ。
 それは、しかし。
 長い、とてつもなく長い物語の、単なる序章に過ぎない。



 マイラ・オルフェインは。

 少女のような笑みで、食堂へと向かった。

 魔人達の遺体の懐から、飛び出したものがあった。
 灰色の、小さなねずみ、だ。
「いけない…!!」
 我に返ったマイラが叫ぶ。
「あれは…」
 しかし、壁のひび割れた隙間に、ねずみは消えた。
 間違いない。
 英雄剣士グレイアンに討たれた時と、同じ手だ。
 小動物に乗り移って、逃げたのだ。
「憑依…」
 あのねずみだけは、何があろうと仕留めなければならない。
 その筈だ。だが、どうやって?
 辺り一帯を破壊するのか。そんな魔力は、蒼の魔導師にも残っていない。
「あのねずみを捕まえてください!」
 まともに動ける者は、一人もいない。
 ならば、人に戻る方法とやらを見つけ出し、阻止するしかないが。
 その仕組みは恐らく、乗り移ったねずみの体に内包されているに違いなかった。
 リースが滅ぶその日まで、魔人は何度でも蘇るのだろう。
 黄金の髪の少女が、今ここに居なかったなら。
「大丈夫ですよ、マイラさん」
 レイクリルは、最高の笑顔で告げた。
「あいつはもう、二度と人に戻れませんから」
 それは、成し遂げた者だけに許される、天に祝福されたかのような微笑み。
「まさ、か…」
 封印の一族に生まれし、レイクリル・ガーナスン・アトナンターゼ。
 彼女の旅の目的は、取り逃がしてしまった魔物の封印であった。
 しかし、魔物は封印するまでもなく、相棒が倒してくれた。
 その代わり、にはなるだろうか。
 対象のランクで言えば、きっと上がった筈だ。
「あのねずみに、魔人を永久封印しました」
 それは、つまり。
 事前に施していたであろう、人に戻る術も意味を成さない。
 魔人ヒューデスが、復活の道を絶たれたという事だ。
 未来永劫、その名が歴史に再登場する事は無いのだろう。
 彼の、ひどく身勝手な輪廻は、ここに閉じた。
「封印、完了…」
 全ての魔力と精神力を使い切り、少女もまた、気絶していた。
 とても、幸せそうな顔で。


「…大した連中だよ」
 ハドは、そう言うのが精一杯だったようだ。
「命を懸けるに足る決意、ですからね」
 マイラは、倒れた封印師の少女を抱える。
「ハド。黙って見てないで手伝ってください」
 マイラも体力は残っていないのだ、しかし。
「そうしたいところだがね」
 巨漢の事情は、もう少し切実だ。
「…封印術を解いてくれないかよ」
 レイクリルの腕は、格段に上達していたのであった。
「ハド様は、あたしがお持ち帰りしますぅ」
 何時もの、空気を読まない少女が、そこに居た。

 幕が、降りていた。

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